『忙しい』という言葉が嫌いである。「お忙しいでしょう」とよく言われる。その度「全然いそがしくないです。」と返答するが、そんなに忙しくしているように見えるのかな~と考えてしまう。全然セカセカ生活していないし、子ども達ともよく遊んでいる。子ども達は私に「いつお仕事に行くの?」と言う。私が幼稚園に来るのは、お仕事とは思っていない。いつもブランコに乗ったり、紙ヒコーキを飛ばしたり、鬼ごっこをしているのだもの、お仕事とは思っていないのが当たり前。私だってそうは思っていない。私ほど子ども達と遊んでいる園長はいないでしょう。それなのに、どうして私と会うと、「お忙しいでしょう」と言うのだろう。他所の園長先生は、ワイシャツにネクタイなので、仕事をしているように見えるが、私はトレパンかショートパンツにTシャツなので、仕事をしているようには見えないし、実際に仕事をしていない。子どもと遊んでいる。それなのに、「忙しいでしょう」と言うのは、私の日中の姿を見ず、たくさんの仕事を抱えて、悪戦苦闘、東奔西走している私を想像しているからであろう。
どうでもよい会議などで、「お忙しい中、お集まり頂き誠に恐縮しております。」など、心にもない挨拶を聞くと、「忙しかったら、こんな会議に出て来る筈ないじゃないか」と思う。自分が挨拶しなければならない時に「お忙しい中…」などと、自分が嫌いな言葉をブツブツ言っている自分に、なんとも居心地の悪い思いをすることがある。
「忙しいのは、良いことだ」と言う人がいる。忙しいのが良いのではなく、生活が充実していることが良いことなのだ。忙しいとは心をなくすと書くが、何が何だか分からなくなるような忙しさは、良いことではない。どんなに仕事が多かろうと、大きな仕事を抱えていようと、余裕がなければならない。
自然に逆らい、人がコントロールできなくなった原発の問題にしたって、急ぎ過ぎた結果である。もっと便利に、もっと豊かに、もっと早くと、先を急ぎ過ぎた。危険を考える余裕がなかった。子ども達にも、もっと多く、もっと早くと、先を急がせてきた。
子ども達と生活していると、のんびり空を眺めることが多くなる。空気を体の隅々に沁み渡らせるほど、深く息をすることが多くなる。自然の中でゆったりとした幼児期の〝時間〟が流れていく生活が、子ども達には必要だ。生きることの目的が、のびやかで豊かな人生を送るためであるなら、何も急ぐ必要はないし、忙しく〝時〟を失うのは勿体ない。
最後に一句 「山茶花や忙しきことははずかしと」 森 澄雄