私は歩くことが好きだ。外出しない休日は、事務所で仕事する。単に移動するだけなら、車で行った方が早いし、公道のほうが歩きやすいが、少し遠回りになるが、山林や畑の中の小道を歩いて行く。木々の芽が吹き、小さな花々、鳥のさえずり、自然の中に浸り、身も心もゆったりと解放される。歩いていると、いろいろなことが流れ、湧き出てくる。野道の中に、みごとな大樹の桜がある。誰にも見られず私一人に語りかけてくる。そして、すぐに桜吹雪になって、小道が花のジュータンになった。桜に変わって、つつじが咲き、あやめ、かきつばたか。小道の中のそこ、ここに小さな野の花が。歩くことが目的でもなく、歩くことで思索が、自己を見つめ直すとかいうものではなく、ただ歩くことだけである。「無」である。子ども達と歩くのも好きだ。特に柔らかな新緑の頃に野原を横切り、山林に分け入って歩く。
子ども達と歩く時は、冒険ありの探検が楽しい。先生達も心得ていて、私が今日は園に行きますと電話すると「えっ!来てくれるんですか、じゃ、お散歩に行きましょう」と言う。子ども達に、私が来ることを伝えると、「ヤッター!」とみん!なが喜んでくれる。北竜台の園は、周囲が自然に包まれている。隣地には、広い野原が広がっていて、たくさんの野の花が咲き、バッタや蝶が飛び、水溜まりには、オタマジャクシもカエルも群がっている。愛国学園や公園まで歩いて行く。囲いも、フェンスもないので野原を横切り、歩く。広い野原の所有者は、「ここは私有地だから入らないでください」と無粋なことを言うが、子ども達と私は、「ハイ、ゴメンなさい」と意に介さず、歩く。
誰からともなく、自然に、「歩こう歩こう、私は元気」と!歌い始める。子ども達も解放されるのだ。自由なのだ。公道を手をつなぎ、行動を抑えられて歩く「行進」ではなく、まさに「お散歩」「探検」なのだ。野の花や野草の名前をほとんど知っている博士ちゃんもいた。わたしは、教えてもらったけれど、多すぎて、三~四種しか覚えられなかった。自然の中で自由に歩くことで、たくさんの体験ができる。子ども達ともっと散歩しよう。しかし、急に暑くなり、熱中症が心配になって、散歩の機会もすくなくなっている。